貞泉寺本堂の欄間彫刻(二十四孝)
このページの写真は全て、(社)日本写真家協会会員の
若林純氏にご提供頂いたものです。氏のご協力に心より感謝致します。
本堂の玄関を入りますと、外陣
(げじん)中央上部に大きな額がありその左右に小幅の欄間彫刻があります。さらにその左右の蟻壁の下に幅広の欄間彫刻が各々2面ずつ、外陣では計6面が配置されています。
彫刻のほとんどは素木
(しらき)ですが、正面内陣の欄間彫刻には彩色が施されており(写真では幡
(ばん)天蓋とのため全体は良く見えない)、中央の龍の左右に二十四孝の2面があります。
左右脇間には中幅の欄間彫刻が3面ずつ、計6面を見ることができます。
以降欄間彫刻を見て頂きます。先ず外陣の左端から右端へと歩を進めます。外陣が終わったら左前の脇間に進み、外陣同様に左端から右へ、内陣を通り、右脇間の右端まで見て頂きます。
なお、彫刻と人名が違うことを発見された方は、ご面倒でもナウエモン 加藤義彦まで
メールをくださるようお願いします。
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若林純氏:1957年東京都生まれ。日本大学芸術学部写真学科卒業。国内外の自然、建築、社寺彫刻を主に撮影、企画、執筆。(社)日本写真家協会会員。主な著書に『妻沼聖天山 歓喜院聖天堂 - 彫刻と彩色の美』(平凡社)や『寺社の装飾彫刻』全7巻シリーズ(日貿出版社)などがある。
なお、『寺社の装飾彫刻』北海道・東北・北陸編には貞泉寺の二十四孝の欄間彫刻が2ページを使って紹介してある。
― 外 陣 ―
左外陣左 楊香(ようこう)
楊香が父と山道を歩いていると、一匹の虎が現れ襲おうとした。楊香は虎の前に躍り出て「どうか私を食べて父を助けて…」と願ったところ、虎は襲いかかるのを止め立ち去った。
左外陣右 唐夫人(とうふじん)
唐夫人の姑の長孫夫人には歯がなかったので、食事の代わりに自分の乳を与えるなどの孝養を尽くした。長孫夫人は死に際して一族の者に、「嫁の唐夫人のこれまでの恩に報いたいが、今死のうとしているのが心残りである。私の子孫達よ、唐夫人の孝行を真似るならば、必ず将来繁栄するであろう。」と告げた。
中央外陣左 蔡順(さいじゅん)
母と二人暮らしの蔡順は、飢饉で食料がなくなったので、桑の実を拾い、熟した実と未熟の実に分けていた。そこへ、盗賊たちが通りかかり、「何をしているのだ」と問うと、蔡順は、「黒く熟した、おいしい実は、老いた母に差し上げるため、赤くて未熟な、まずい実は、私が食べるためです」と答えると、盗賊たちは、その孝心に心を打たれて、二斗の米と、
牛の足を彼に与えた。
右外陣左 漢文帝(かんのぶんてい)
漢の文帝は名を恒(こう)と言った。母の薄太后に孝行を尽くし、食事の際は自ら毒見をするほどであった。兄弟も沢山いたが、文帝ほど仁義・孝行な皇子はいなかったので、重臣の推挙で皇帝になった。文帝の世は豊かになり、民衆も住みやすくなった。
右外陣右 王祥(おうしょう)\曾参(そうしん)
王祥の実母が健在の折、冬の極寒の際に魚が食べたいと言い、王祥は河に行った。しかし、河は氷に覆われ魚はどこにも見えなかった。悲しみのあまり、衣服を脱ぎ氷の上に伏していると、氷が少し融けて魚が2匹出て来た。早速獲って帰って母に与えた。この孝行のためか、王祥が伏した所には毎年、人が伏せた形の氷が出るという。
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曾参が山に薪を取りにいっていると、家に、突然、彼を訪ねて客人が来た。母親は、その客をどうもてなしていいか分からず、曾参に早く帰ってほしいと思い、思わず自分の指を噛んだ。その時、曾参は、にわかに胸騒ぎがしたので、急いで家に帰り、その客に礼を尽くすことができた。曾参親子の心は、このように深く通い合っていた。
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― 左脇間 ― 内陣 ― 右脇間 ―
左脇間左 張孝・張礼(ちょうこう・ちょうれい)
飢饉の折、老母に食べさせようと木の実を拾いに山に入った弟の張礼は、盗賊に襲われ殺されて食べられそうになった。「母に食べさせたら必ず戻るから!」と頼み帰宅を許され、老母に食事をとらせて再び盗賊のもとへ戻った。これを聞いた兄張孝は盗賊のもとへ駆けつけ、「私を食べて弟を助けて欲しい!」と懇願した。兄弟の孝行に感心した盗賊は褒美を与えて二人を解放した。
左脇間中央 郭巨(かくきょ)
郭巨の家は貧しかったが、母と妻と子を養っていた。郭巨の母は孫を可愛がり、自分の少ない食事を分け与えていたためやせ衰えてしまった。郭巨は妻に「夫婦であれば子供はまた授かるだろうが、母親は二度と授からない。ここはこの子を埋めて母を養おう」と告げた。妻は悲嘆に暮れたがやむを得ない。郭巨が涙を流しながら地面を少し掘ると、黄金の釜が出てきた。郭巨と妻はこの釜が天から贈られたものと分かり、子供と一緒に家に帰って、さらに母に孝行を尽くした。
内陣左 大舜(だいしゅん)
大舜は大変孝行な人であった。父は頑固者で、母はひねくれ者、弟は奢った能無しであったが、大舜はひたすら孝行を続けた。大舜が田を耕しに行くと、象が現れて田を耕し、鳥が来て田の草を取り、耕すのを助けた。その時の天子堯は大舜の孝行な心に感心し、娘を娶らせ天子の座を譲った。
内陣右 董永(とうえい)
董永は幼い時に母と別れ、家は貧しく、いつも雇われ仕事の小銭で日々暮らしていたが、父も亡くなってしまった。葬式をしたいと思ったが、貧しいのでお金がない。そこで、身売りをしてその金で葬式をした。身請け主の所へ行こうとすると、途中で一人の美女に出会った。美女は董永の妻となり、沢山の絹を織って主に届け、董永を身請けした。そして「私は天の織姫ですが、貴方の孝行な心に感じて天が私にお命じになりました」と言うと、天に帰って行った。
右脇間左 姜詩(きょうし)
姜詩の母は、いつも綺麗な川の水を飲みたいと思い、魚を食べたいと言っていた。姜詩と妻は、いつも長い距離を歩き、母に水と魚を与えてよく仕えた。するとある時、姜詩の家のすぐ傍に綺麗な川の水が湧き出て、毎朝その水の中には
2匹の鯉がいるようになった。姜詩と妻の孝行を感心に思って天が授けたのです。
右脇間中央 (ゆきんろう)
ゆ黔婁は県知事となって赴任し、十日も経たぬうちに、胸騒ぎがしたので、父が病気になったに違いないと思い、職を捨てて帰郷した。案の定、父は重い病に伏せっていた。医者が言うには、病人の便をなめて、苦ければ助かるとのこと。ゆ黔婁が父の便をなめてみると、甘い味がしたので助からないことを知り、北斗の星に自分が父の身代わりに死ぬことを祈った。
参考:楡山神社古典講座の
二十四孝絵鈔に同様の構図の絵がある。
右脇間右 呉猛(ごもう)
8歳の呉猛家は貧しく蚊帳を買うお金も無かった。そこで自分の着物を親に着せ、自分は裸になって蚊に刺され続けた。すると蚊も呉猛だけを刺し、親を刺す事は無くなったと言う。
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欄間彫刻を見学される方へのお願い
本堂に入って自由に欄間彫刻を見て頂いて結構です。見学は無料です。但し、施錠してある場合もありますので、事前にご連絡くださるようお願い致します。
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